REPORT レポート

国内初となるボクシングのPPV配信、そしてやはり王者が“モンスター”と呼ばれる所以。12.14はボクシングの新時代の扉を開ける大会となったか―――

ホワイトドレスコードでほぼ白一色の会場が挑戦者の鼻血で真紅に染まった。

PXB WORLD SPIRITS WBA・IBF世界バンタム級タイトルマッチは12月14日東京・両国国技館で約5000人の大観衆を集めて行なわれ、王者・井上尚弥(大橋ジム)がIBF世界バンタム級5位のアラン・ディパエン(タイ)を8ラウンドTKOで葬り、防衛に成功した。

セミファイナルでは王者ウィルフレッド・メンデス(プエルトリコ)に谷口将隆(ワタナベ)が挑戦するWBO世界ミニマム級タイトルマッチ、K-1からボクンシグに転向し2戦全勝と波に乗る武居由樹(大橋)のデビュー3戦目など、マッチメーク的にも話題に事欠かない大会だった。

井上尚弥 VS アラン・ディパエン

それだけではない。今大会はいつものように地上波での実況中継がなかった。その代わりひかりTVを軸としたインターネットによるPPVが配信された。PPVとはペイ・パー・ビューの略で、一番組ごとに視聴者に購入してもらうシステムを指す。

すでにアメリカではおなじみの放送スタイルで、人気の高い選手に支払われる日本円換算で何十億単位の高額なファイトマネーを支えている。今回の井上の世界タイトルマッチを機に、日本にもPPVを根付かせ命懸けで闘うボクサーたちの待遇を少しでもよくしようというのが導入のきっかけだった。

解答が出るのはまだ先の話になるが、ボクシング放送はいよいよ本格的に新時代に突入するのかもしれない。ひかりTVはボクシング界の救世主になるのか。

試合後、井上の口から発せられたコメントで気になるものがいくつかあった。まずは「期待を遥かに下回る試合をしてしまった」という発言を挙げたい。これまで井上の世界戦といえば周囲の期待を常に上回る内容になることが常だった。それゆえ今回も挑戦者がディパエンに決定した時点で、早いラウンドでの短期決着が予想されていた。

井上尚弥 VS アラン・ディパエン

無理もない。ディパエンはIBFの世界ランカーとはいえ、無名以外なにものでもなかった。過去の試合映像を観ても、井上を攻略できるような何かを持ち合わせているようなレベルには見えなかった。それでも、このタイ人は母国タイの国技ムエタイで50戦のキャリアがあることから、一部のマスコミは“ムエタイの猛者”とあおった。

現地で幾度となくムエタイを取材している筆者は「ちょっと待ってくれ」と口を挟みたくなった。ムエタイで50戦程度のキャリアを持つ選手はごまんといる。むしろこの程度のキャリアなら、まだビキナーレベルだ。

しかも、ディパエンはタイの二大メジャースタジアム認定(ボクシングではWBA、WBC、IBF、WBOの世界王座に相当する)のランキングに名を連ねた記録は残されていない。おそらくタイの地方で細々とキャリアを積み重ねたと推測される。ローカルエリアでもチャンピオンになっていないようなので、ムエタイ選手としてもそれほどのレベルではなかったと思われる。

その一方でディパエンにはアマチュアボクシングのキャリアもあると伝えられた。タイでは各競技ともナショナルチームに入り、オリンピックで優勝すれば、その後の人生は薔薇色に輝く。東京オリンピックのテコンドーで金メダルを獲得した女子49㎏級のパニパック・ウォンパッタナキット(タイ)は併せて1億円以上の報奨金を得たと報道された。

残念ながらディパエンはアマチュアボクシングでもタイドリームを成就することができなかったのだろう。30歳とボクサーとして決して若くない年齢に差し掛かった彼が成り上がるために残された道はプロボクシングしかなかったのではないか。

井上尚弥 VS アラン・ディパエン

8ラウンドまで井上の猛攻を耐え抜いたことで、ディパエンはムエタイ仕込みのタフさを称賛する声もある。もちろん、ボクシングだけではなく、蹴り、ヒザ、果てはヒジ打ちまであるムエタイをやっていたからこそ頑丈な身体になったということは否定できない。

いみじくも井上は言う。「見切るためにしっかり見てましたけど、タイのボクサーの独特のリズム、間合いを読み取りづらいというのはありました」

それでも、井上は随所で“らしさ”を爆発させた。ありえないタイミングで放つボディフック、試合前は「この一戦のテーマ」と公言していた鋭いリードの役割を果たしていたジャブ、のちにマイク・タイソンが絶賛していることが判明したアッパーの3連打。短期決着こそなかったが、むしろ井上のワンマンショーを8ラウンドまで観られただけでも幸せと見方を変えているファンもいるだろう。それにしても、普通だったらいつ倒れてもおかしくない王者の攻撃に、なぜこの挑戦者は耐えることができたのか。その問題を突き詰めていくと、タイの多くのボクサーが抱える問題に行き着く。

井上尚弥 VS アラン・ディパエン

新型コロナウイルスが感染拡大を広げる中、タイでは格闘技の興行が相次いで中止となった。昨年春のムエタイの興行でクラスターが発生したことが感染拡大の要因のひとつとされ、国民から格闘技の興行そのものが白い目で観られるようになってしまったのだ。

ジムは休業・廃業を余儀なくされ、選手の中には一時的に故郷に帰省したり、そのまま廃業し転職した者もいる。興行そのものが回らなくなってしまったのだから仕方あるまい。タイではコロナになっても格闘技に対する公的補助は一切なかった。コロナ禍でも顔色を変えずにジムのオーナーやプロモーターをしているのは蓄えに余裕のある資産家だけだ。そうした中、試合のチャンスを得た選手が想像を絶するハングリーな精神を胸にリングに上がることは容易に想像できる。

井上尚弥 VS アラン・ディパエン

試合後、井上は「俺、パンチないのかな?」と試合中自分のパンチがヒットしているのに効いている素振りを見せない挑戦者の態度に不安になったことを打ち明けている。

それはそうだろう。明日のために「絶対に勝たなければならない」と心に誓いながらディパエンはリングに上がっていたのだから。井上が強弱をつけた攻撃を仕掛けたり、わざと攻めさせても、挑戦者の闘う姿勢が大きく変わることはなかった。このタイ人はこじあけることが極めて困難な“貝”だった。

序盤から勝ち目はなかったが、そのタフネスぶりはやはり称賛されるべきか。時折返しを放つが、何よりスピードが違いすぎる。いつしかディパエンは無意識のうちに勝つことより負けない試合運びを選択したような気がしてならない。ガードをガッチリと固め、ディフェンスだけを考えた挑戦者ほど倒しづらいものはない。相手が攻める瞬間があるからこそスキは生まれ、KOするチャンスは生まれる。

井上尚弥 VS アラン・ディパエン

案の定、試合中井上は「判定(勝ち)がよぎった」と思い返す。勝ちは勝ち。それはもう最初から動くものではなかった。しかしながら無名の挑戦者が“モンスター”と呼ばれる王者を相手に勝負を判定までもつれこませたら、それだけで大きなニュースになる。途中から会場には、「そういうふうになってしまうのではないか」という空気が流れていたことも否定できない。そうした空気を断ち切り、屈強な貝のような無表情な挑戦者を8ラウンドになってから左ストレートでぶっ飛ばしたのもやはり井上がモンスターといわれる所以だろう。その直後、立ち上がってきた挑戦者はそれまでの無表情が嘘のように疲労困憊の面持ちだった。

想定外のタフファイトになったとはいえ、日本が誇るモンスターは2022年春に開催のビッグマッチへと予定通りに駒を進めた。新時代の扉を開けるスターターピストルは、井上尚弥によって打ち鳴らされた。

著者プロフィール

布施 鋼治(ふせ こうじ)
1963年7月25日、札幌市出身。学生時代から執筆をスタート。得意分野は格闘技。Numberでは'90年代半ばからSCORE CARDを連載中。共同通信、北海道新聞でもコラムを執筆中。2021年はレスリングでアジア選手権や世界選手権取材のため、コロナ禍の中海外へ。二度に渡りバブル生活も体験。地上波のワイドショーでコメンテーターを務めた。ボクシングでは、以前頻繁に訪れていたロシアでアマチュアボクシングを取材する機会に恵まれている。2008年7月に上梓した「吉田沙保里 119連勝の方程式」(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。【twiter